永隆寺とは

永隆寺

 「永」の字義は“限りなく続く”、「隆」は、尊ぶ・栄える・豊か等の意味があります。“永遠に法華経の教えが栄尊ばれ、この寺院に集う信徒が心豊かに栄える”という願いが込められております。
 日々の生活環境にて生じる迷い・ストレス等々、永隆寺山門に一歩足を踏み入れ、本門八品のお題目を唱えれば常寂光土、きっと仏様の大慈悲の心に包まれ安穏となり、良き知恵を授けてくれる事でしょう。

春陽山

 寺名の上につけられる〇〇山の称号は、中国では寺の所在地を示すため用いたそうです。我が国では、寺は主に平地に造られましたので、山号を付けていない寺院も多くあります。ご本山本能寺も山号を付けておりません。永隆寺開基(創立)利玄院日義上人は、なぜ「春陽山」と命名されたのでしょう。読んで字のごとし“春の陽の山”です。
 天国という言葉はキリスト教徒が使い広ました理想の来世世界です。極楽浄土は浄土真宗の信徒がやはり広めたのです。法華信徒は「常寂光土」と呼びます。これは法華三部経のひとつ「観普賢菩薩行法経」の一説からの言葉で、久遠の仏さまが住まわれている世界の名称にて、春の日差しのごとく穏やかな光明が充満し、なにも不自由なく心安穏に暮らせるそうです。
 永隆寺山門を一歩入れば常寂光土たらん願いが、開基利玄院日義上人におありになったのでしょう。

永隆寺縁起

 開基・利玄院日義上人は、徳川家康公の囲碁の師匠であったといいます。その縁で家康公より寺領を神田加治橋に拝領し、当山を創立したと伝えられています。寛永年間(1624~43)、谷中清水町に移転、さらに元禄四年(1691)、本所出村(のちの太平町)に再移転しました。関東大震災後の昭和三年(1928)に現在地へ移転するまでの二百三十七年間、本所太平町に在りました。この地は地盤が低く、しばしば水害に遭いました。須弥壇まで水につかることもあったので、古記録などを流失したといわれています。また、毎月三の日には大黒天縁日が盛大に開かれていました。
 この大黒天(石像)は、開基・利玄院日義上人が家康公の側室・養珠院殿お万の方より拝領したもので、当山の寺宝とされています。

神保大黒天

 この石造の大黒天は、利玄院日義上人が家康公の側室、法華経信仰篤き養珠院殿お万の方より戴いたものであり、平素信仰なされていたものです。 永隆寺は元禄四(1961)年、本所太平町に移転しましたが、当時は毎月三の日に大黒天縁日が開かれ、植木市などが立ち並び盛大であったといいます。
 しかし三回のうち一回は雨で縁日ができず、植木市にて一儲けしようと思っていたところ雨でそれができなかったことから、神保大黒天は「貧乏大黒天」と呼ばれて親しまれていました。その雨も甘露の豊雨で、我々を清め導いてくださる大黒様の御心をあらわしているのではないでしょうか。